2011年10月24日
「神風」沈没の元寇船発見=原形とどめる-長崎・鷹島沖
「神風」沈没の元寇船発見=原形とどめる-長崎・鷹島沖
鎌倉時代の元寇(げんこう、蒙古襲来)のうち、1281年の2度目の襲来(弘安の役)で沈んだ元の軍船とみられる船が、長崎県松浦市沖の海底で見つかった。調査した琉球大の池田栄史教授(考古学)が24日、長崎県庁で記者会見し明らかにした。池田教授によると、ほぼ原形をとどめており、良好な形の元寇船が見つかったのは初めてという。
発見された場所は、長崎県北部の伊万里湾に浮かぶ鷹島(同市)沖水深20~25メートルの海底の土中。船体の背骨部分に当たる「キール」(長さ12メートル、幅50センチ)や両舷を構成する板が残っており、全長20メートルを超える大型船と推測される。船の構造や、周辺で大量の中国産陶磁器が見つかったことなどから、元の軍船と判断した。この時代のもので沈没した年が特定できる船が見つかるのは珍しいという。
鎌倉時代、元は従属を迫るため、2度にわたり日本へ大船団を送ったが、2度とも「神風」と呼ばれた暴風雨に見舞われ、壊滅的な被害を受けて敗退した。
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船団は4400艘、14万人で1艘辺りの搭乗人は32人程、鷹島周辺は完全に海を覆いつくしたのでは
ないかと想像する。案内板には全島民が虐殺され、灰溜めに隠れていた老婆が1人だけ生き残ったと
か!730年前の事だが、女子から子供まで、殺すのですから、人間は残酷な事をしますね。
大宰府へ急を知らせた、対馬小太郎、兵衛次郎の墓が在り、当時を偲ぶ事が出来ます。
上陸したのは高麗「韓国」が先陣だったようで、元のフビライには逆らえなかったようです。
毎日、午前4時前に、兵衛次郎の墓の前を通過しますが、厳粛な気持ちになります。
鎌倉時代の元寇(げんこう、蒙古襲来)のうち、1281年の2度目の襲来(弘安の役)で沈んだ元の軍船とみられる船が、長崎県松浦市沖の海底で見つかった。調査した琉球大の池田栄史教授(考古学)が24日、長崎県庁で記者会見し明らかにした。池田教授によると、ほぼ原形をとどめており、良好な形の元寇船が見つかったのは初めてという。
発見された場所は、長崎県北部の伊万里湾に浮かぶ鷹島(同市)沖水深20~25メートルの海底の土中。船体の背骨部分に当たる「キール」(長さ12メートル、幅50センチ)や両舷を構成する板が残っており、全長20メートルを超える大型船と推測される。船の構造や、周辺で大量の中国産陶磁器が見つかったことなどから、元の軍船と判断した。この時代のもので沈没した年が特定できる船が見つかるのは珍しいという。
鎌倉時代、元は従属を迫るため、2度にわたり日本へ大船団を送ったが、2度とも「神風」と呼ばれた暴風雨に見舞われ、壊滅的な被害を受けて敗退した。
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船団は4400艘、14万人で1艘辺りの搭乗人は32人程、鷹島周辺は完全に海を覆いつくしたのでは
ないかと想像する。案内板には全島民が虐殺され、灰溜めに隠れていた老婆が1人だけ生き残ったと
か!730年前の事だが、女子から子供まで、殺すのですから、人間は残酷な事をしますね。
大宰府へ急を知らせた、対馬小太郎、兵衛次郎の墓が在り、当時を偲ぶ事が出来ます。
上陸したのは高麗「韓国」が先陣だったようで、元のフビライには逆らえなかったようです。
毎日、午前4時前に、兵衛次郎の墓の前を通過しますが、厳粛な気持ちになります。
Posted by アイル新日本 at 11:33│Comments(0)
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