2013年02月12日
県警の組織犯罪対策の講義、やくざの元祖幡隋院長兵衛
昨日、佐賀県警の振り込み詐欺と組織犯罪対策の講義を受けました。
組織対策は主に暴力団ですが、その歴史から話が有り、元祖は徳川幕府成立後に唐津市相知町出身で、唐津市北波多の上松
浦党首で岸岳城主の波多氏の家臣だった塚本伊織の子の伊太郎と言い、主家が滅んだ為、江戸へ上る途中に、父が下関で死亡
し、単身で江戸へ行き、幡随院に住み、町奴の頭領となり、旗本の次男、三男は部屋住み(冷や飯食い)で、家督も継げないの
で、旗本奴(町民に乱暴、狼藉をした。)の頭領の水野と対立し、和解したいと屋敷に招かれ、ワザと酒を溢し、服を乾かすのでと、
風呂に入浴させ、殺害、「人は一代、名は末代」の台詞は、その後、歌舞伎、講談で何度も上演されました。
強きをくじき、弱きを助ける侠客として、大江戸の華と謳われました。
警察の方ですから、佐賀県唐津出身で、自慢にもなりませんがと立場上はそうですが、地元では誇りとなり、記念碑には、
唐津藩主の正統の小笠原長生の題字で、名横綱、69連勝の双葉山が幕引きをし、相撲の興行も有ったそうです。
長兵衛の頃の侠客道と現在の暴力団は全く違い、金の為なら何でもする団体で全国に7万3千人と以前は20万人でしたから
随分減ったようです。
ネットには下記の記述も有りました。
幡随院長兵衛の出身については、昔よりさまざまな説があり、肥前唐津藩の侍の子という説や、幡随院住職の向導の実弟という説、さらには、幡随院の門守のこという説もあります。
こうした中で大正時代末、東京で長兵衛の銅像建立計画があった際に、唐津藩の寺沢家家臣という説があったため、郷土史家の吉村茂三郎氏に実否の調査依頼がありました。そこで、吉村氏が調査を重ねたところ、長兵衛は寺沢家の家臣どころか、寺沢氏を敵と狙う旧波多家の家臣の子で、誕生地も相知町の久保であることが判明し、非常に反響を呼びました。
吉村氏の説の大概は次の通りです。
長兵衛の父親は塚本伊織といい、大河野の日在城主である鶴田因幡守勝の家臣で、久保(現在、長兵衛の碑がある場所)に館を構えていました。ところが、主君の因幡守勝が竜造寺隆信に攻められて城を追われたために、塚本伊織は一子伊太郎を連れて江戸へと向かいましたが、途中で下関で病死してしまいました。そこで伊太郎は父の遺命で、幡随因の和尚を頼って江戸に上がり、ついには強気をくじき弱きを助ける男の中の男幡随院長兵衛となったといわれています。
非常に興味深い説ではありますが、年代的な齟齬等があることは確かです。しかしながら、郷土の出身であることを信じたいです。ちなみに長兵衛のお墓は、東京都台東区東上野にある源空寺にあり、今も多くの参拝者が訪れています。
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組織対策は主に暴力団ですが、その歴史から話が有り、元祖は徳川幕府成立後に唐津市相知町出身で、唐津市北波多の上松
浦党首で岸岳城主の波多氏の家臣だった塚本伊織の子の伊太郎と言い、主家が滅んだ為、江戸へ上る途中に、父が下関で死亡
し、単身で江戸へ行き、幡随院に住み、町奴の頭領となり、旗本の次男、三男は部屋住み(冷や飯食い)で、家督も継げないの
で、旗本奴(町民に乱暴、狼藉をした。)の頭領の水野と対立し、和解したいと屋敷に招かれ、ワザと酒を溢し、服を乾かすのでと、
風呂に入浴させ、殺害、「人は一代、名は末代」の台詞は、その後、歌舞伎、講談で何度も上演されました。
強きをくじき、弱きを助ける侠客として、大江戸の華と謳われました。
警察の方ですから、佐賀県唐津出身で、自慢にもなりませんがと立場上はそうですが、地元では誇りとなり、記念碑には、
唐津藩主の正統の小笠原長生の題字で、名横綱、69連勝の双葉山が幕引きをし、相撲の興行も有ったそうです。
長兵衛の頃の侠客道と現在の暴力団は全く違い、金の為なら何でもする団体で全国に7万3千人と以前は20万人でしたから
随分減ったようです。
ネットには下記の記述も有りました。
幡随院長兵衛の出身については、昔よりさまざまな説があり、肥前唐津藩の侍の子という説や、幡随院住職の向導の実弟という説、さらには、幡随院の門守のこという説もあります。
こうした中で大正時代末、東京で長兵衛の銅像建立計画があった際に、唐津藩の寺沢家家臣という説があったため、郷土史家の吉村茂三郎氏に実否の調査依頼がありました。そこで、吉村氏が調査を重ねたところ、長兵衛は寺沢家の家臣どころか、寺沢氏を敵と狙う旧波多家の家臣の子で、誕生地も相知町の久保であることが判明し、非常に反響を呼びました。
吉村氏の説の大概は次の通りです。
長兵衛の父親は塚本伊織といい、大河野の日在城主である鶴田因幡守勝の家臣で、久保(現在、長兵衛の碑がある場所)に館を構えていました。ところが、主君の因幡守勝が竜造寺隆信に攻められて城を追われたために、塚本伊織は一子伊太郎を連れて江戸へと向かいましたが、途中で下関で病死してしまいました。そこで伊太郎は父の遺命で、幡随因の和尚を頼って江戸に上がり、ついには強気をくじき弱きを助ける男の中の男幡随院長兵衛となったといわれています。
非常に興味深い説ではありますが、年代的な齟齬等があることは確かです。しかしながら、郷土の出身であることを信じたいです。ちなみに長兵衛のお墓は、東京都台東区東上野にある源空寺にあり、今も多くの参拝者が訪れています。
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Posted by アイル新日本 at 12:55│Comments(0)