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2009年12月02日

義を受け継いだ人達、直江兼継、上杉鷹山、雲井龍雄

NHKの再放送「歴史秘話ヒストリヤ」を見ました。

直江兼継、上杉鷹山、雲井龍雄と義を受け継いだ人物の登場です。

雲井龍雄は知りませんでしたが、明治政府になり、浪人した者を救う為に、

政府に働き掛けたが、以前は薩長に反抗した者達だったので、

捕らえられ、半数は拷問等で死に、龍雄も斬首されています。

TVでは詳細は解かりませんでしたが、ネットで見ると下記のような記述が有りました。


明治維新の志士 雲井 龍雄
 時は幕末のころでした。米沢は袋町、中島家の庭に、四、五人の子供が遊んでいました。すると、どこからか紙鳶(たこ)が落ちてきました。その当時は、同じ町内の人の紙鳶なら返しますが、他の町の人のものは破ってしまうのを習わしとしていました。四、五人の子供は、落ちてきた紙鳶が他の町から来たことを知って破ろうとしました。そこに紙鳶の持ち主があらわれたのです。その人達ははるかに年上の子供で、腕力もありそうに見えました。中の一人が、「おれの紙鳶を破るな」と、大声で怒鳴ったので、破ろうとした子供達は恐れて後ろに退いてしまいました。これを見ていた一人の小柄な少年が、すばやく紙鳶の傍に近づき、いきなりその紙鳶を足で破って、「骨は返すから拾って帰れ」と大喝しました。今まで奪い返そうといきまいていた持ち主達は、この勢いに圧倒されて、そのまま逃げ去ってしまいました。この小柄な少年こそ、その名を猪吉(いきち)といい、雲井龍雄の少年時代の姿だったのです。「獅子の子は生れたばかりでも、すでに牛を呑む気概をもっている」という古い言葉がありますが、猪吉少年にはこの気迫があったのでしょう。

 龍雄は、弘化元年(1844)3月25日、米沢の袋町に住む藩士中島総右衛門の次男として生れました。父総右衛門は藩の平御勘定(会計)、御貸物蔵役(倉庫管理)などをし、六石三人扶持をもらっていました。龍雄には兄があり虎吉といい、おとなしい人でした。龍雄は、生れた時に虎吉の弟として丈夫に育つようにといつて豹吉(ひょうきち)と名付けられました。その後、幼年時代には猪吉、さらに権六(ごんろく)・熊蔵などと名前を替えましたが、18才の時、舘山口町の藩士小島才助の養子となり、小島竜三郎と称しました。小島才助は藩の諸普請頭取(建築奉行)、郡割所頭取(土地区画劃奉行)などをした人で、七石十俵三人扶持をもらっていました。

 雲井龍雄という名は明治元年ごろから用いたもので、天下国家のために大いに働こうと意気盛んな25才のこと、「龍が天に昇る」という気概をもってつけた名であったのでしょう。また、龍雄は辰年の辰の日に生れたことから、龍を思いついたのだともいわれています。
西暦1844~1870
(弘化元年~明治3)
 龍雄は8才のとき、上泉清次郎先生の家に通って学問を習うことになりました。上泉先生の家は龍雄の家から一軒おいて南隣でした。上泉先生は龍雄のすぐれた才能と胆力を認めて、「孟嘗君(もうしょうくん)のようだ」とほめていました。孟嘗君とは昔の中国にあった斉という国の公族で、斉の大臣となり、天下の賢人を集めること数千人といわれ、名声は天下に聞こえ、後に秦の国の大臣ともにった有名な人です。それで、近所の子供達はみな、龍雄の名前を呼ばないで「孟嘗君」と呼んでいました。ところが、翌年上泉先生が病気で亡くなりました。龍雄が病気の先生を看病し、その死を嘆くさまは、あたかも自分の親に対するようだといわれたほどでした。

 上泉先生が亡くなると、さらにその一軒おいて向かいの山田蠖堂先生の塾に入門しました。このころの龍雄は負け嫌いで気が強く、腕白な子どもでした。ある日、父母が、「龍雄も12才になったのだから、もう少し腕白がおさまってくれるといいのだが」としみじみ語るのを、陰の部屋で聞いていた龍雄は、じっと考え込んでいましたが、『これほど父上母上に心配をかけるのは自分の過ちであった。これからは文武の道に励んで親に心配をかけないようにしよう』と決心しました。それからは、全く別人のようにおとなしくなり、ひたすら学問に励み、父母の言葉を素直に聞くようになりました。

 14才で藩校友于堂に入学しました。『春秋左氏伝』(中国の古典)を習っていた時のこと、龍雄は佐藤志郎(表町の人)と激論をたたかわせてしまいました。先生は佐藤の意見が正しいことを教えました。龍雄は自分の勉強が至らないことを恥じ、よく反省してみますと、佐藤はこの本を先の方まで読んでいたのに、自分がまだ読んでいないためとわかりました。龍雄は「よし、俺は全部読み通すぞ」と決心し、徹夜で読んでしまいました。翌日、龍雄は学校に行くと、佐藤に、「昨日、僕が負けたのは後の方を読んでいなかったので、前後の関係がわからなかっただけだ。口惜しいから昨晩全部読んでしまった。嘘だと思ったら何でも聞いてみてくれ」と言いました。佐藤はあのように大部のものを読めただろうかと、不審に思って色々質問してみますと、龍雄はその全ての質問を明快に答えました。このことがあってから龍雄は佐藤とは仲の良い学友になりました。

 その後、佐藤が龍雄の家を訪れ、勉強室に入ってみますと、40cmほどの棒があります。不思議に思って尋ねますと、龍雄は、「これは勉強棒というものだ」と答えました。佐藤は勉強棒というわけをさらに尋ねますと、龍雄は、「まず僕の頭の瘤を見たまえ。夜勉強していて眠くなると、これで頭をなぐるのだ。始めは水で顔を洗ったが駄目なので、薄荷(はっか)を瞼につけてみた。すると、目がヒリヒリして仕方がない。唐椒を舐めてみたら、辛くて本を読むどころではなかった。いろいろ工夫してみたが、この棒で殴るのが一番よい。この間、春秋左氏伝を読んだ時も、これでなぐりながら読んだのだよ」と話し、互いに笑い合ったのでした。

 こうして、龍雄の勉強は日々に進み、ついに、米沢にある書物は全て読み尽くしたといわれるほど読書をしました。16才の時には、学業優秀者として、藩の重役の前で質問に答える栄誉を担いました。また、家では父母に孝行を尽しますので、17才の時、藩からご褒美をいただきました。小島家の養子となったのは 18才の時のことでした。

 龍雄が20才の時、養父である小島才助が亡くなったので、小島氏を継ぎ、21才で高畠の警藩役となりましたが、良い本を持っている人を知ると、遠くまで借りに行くほど学問には熱心でした。22才の時に江戸勤務となって米沢藩の江戸御屋敷に勤めました。そこで、上役の許可をもらって、有名な大学者安井息軒(やすいそつけん)の三計塾に入門しました。

 安井息軒といえば、江戸はおろか全国にその名をしられた大学者でした。しかし、龍雄は息軒先生に対して、始めはどことなく横柄な態度をとっていましたが、教えを受けるに従って丁重で恭しくすること人並み以上になりました。塾の高弟が龍雄にその訳を尋ねますと、龍雄は、「先生は如何に大学者でも、自分の学識は劣るものでないと思いましたので、同輩のような態度をとりましたが、ご講義やご意見をお聞きしますと、自分などは遠く及ばないことがわかり、恩師に対する礼とるようになったのです。」と正直に答えました。また息軒には娘があり、父息軒にも似ず美人で、学識も優れ評判の高い人でした。ある日龍雄にこんな話をしてきました。「お国には吾妻山という名山があると聞いて居りますが、山の高さは如何程ありますか」龍雄は、「五尺四、五寸(約1.62~1.65 メートル)」と答えましたので、「米沢第一の高山が五、六尺ということはないでしょう。どうしてそんな寸法になるのですか」と質しますと、龍雄は「私の室は南向きで、吾妻山はよく見えますが、家の軒端より五、六寸(約15~18センチ)は低いから、まあ五尺四、五寸というところでしょう」と答えました。それから娘は再び馴れ馴れしい言葉はかけなかったということです。大きな志をもっていた龍雄は、娘にこだわりをもたないための言葉でもあったでしょうが、それにしても、吾妻山より大きな人物になろうという龍雄の気概がこめられていると思われます。

 龍雄は息軒先生に才能を認められて、親しく相談にあずかるほどになりましたが、藩命によって、慶応2年4月、息軒先生とその門下生に別れを惜しみつつ米沢に戻りました。

 米沢に帰った龍雄は、家老の求めに応じて時局を論じ、藩政に対して意見を述べるのでした。龍雄はどんな事態にも応じられるように軍備を整え士気を鼓舞しておくべきことや、政治の中心は京都なので京都に適任者をさし向け、時代に遅れないようにすべきことなどを進言していました。龍雄は今や藩内では時局に明るい有識者として重要視されるに至ったのです。

 慶応3年1月、米沢藩は千坂高雅・雲井龍雄・門屋道四郎京都に派遣し、中央の事情を探らせました。時に龍雄は24才、遠山翠と名を変え、天下の名士と交わり、時勢の推移を藩に報告していました。10月には徳川将軍慶喜が大政奉還し、12月には王政復古の大号令が発せられ、龍雄は貢士に挙げられました。貢士とは、幕府に代わって政治をとることになった新政府に、全国各藩から推薦された議政官のことです。龍雄は米沢藩を代表して新政治に対する意見を述べる身分になったのです。

 ここで、龍雄の見たものは、新政治を利用して自分の藩を優位に立たせようと、徒に術策をつかう薩摩藩・長州藩などの醜い姿でした。こうして明けた慶応4 年の正月は、3日に鳥羽伏見の戦いが始まり、6日には幕府軍が敗北して、将軍は江戸に帰りました。新政権は、大政を奉還してひたすら恭順を示す将軍を、あくまでも討伐しようとするのです。これは薩長が自らの勢力を強固にするために、幕府方をつぶそうとする企てと見られても仕方がないことだったのです。

 正義感の強い純情の詩人龍雄は、諸外国が目をつけている日本の国内で、国家の政治が一部の藩の横暴によって内乱を招くことは許されないと考え、3回にわたって朝廷に意見書を差し出し、全国から有為の人物を集めて公正な政治が行われるように願ったのですが、一部の人に握りつぶされてしまい、そのうちに討幕軍が江戸に向かうことになりました。

 4月11日、江戸城は開城されましたが、東征軍は、さらに幕府に味方した会津藩・庄内藩討伐しようとし、これを止めようとする奥羽地方の各藩との間に戊辰の役がはじまりました。龍雄は、今こそ薩長を討つ時だとして、同盟軍を励まし、関東地方からも応援軍を集めようと努力しました。

 しかし、時勢は龍雄の志に反し、9月22日、会津が落城して奥羽地方も平定されました。この年の9月8日には改元があり、明治元年と改められました。龍雄は米沢に謹慎し、明治2年6月、興譲館の先生に任命されて後輩の指導にあたりました。しかし、さらに遊学を志して東京に出ました。明治政府は龍雄を集議院議員にしました。当時、議員は任命によったのです。時に龍雄は26才でした。このころ、議員になった人々は後に高官となった人が多いことからみても天下の人材が集められたわけです。しかし、龍雄は、これらの議員を相手に堂々と議論しても一歩も引きません。常に薩長中心の新政策をはげしく批判しましたので、集議院を追われる身となりました。

 龍雄は、新政府が薩長に牛耳られないためには、力で向かうほかないと考えました。旧幕臣や脱藩者などが龍雄を慕って集まり、二寺に分宿するほど多くなりました。各地の人を集めれば五千人にもなろうかと思われました。明治政府は龍雄を恐れて米沢藩に幽閉を頼みましたが、さらに同志を次々に捕らえ、不穏な文書があるとして東京に護送させました。龍雄は深く取り調べられることもなく、明治3年12月28日、27才で小塚原刑場の露となったのでした。

 龍雄は死に臨んで、「私の方策が成功したならば日本の政治はもっとよくなるだろう。それのできなかったのは天命である。」と言い、辞世の詩に「地上の一小物に過ぎない自分の体は滅んでも、正義の大志は永くこの世にとどまって天地の正気とともに生きつづけるであろう」と記しています。

 龍雄の情熱は沢山の詩に残され、多くの人に親しまれています。

 今上天皇(※この書の発刊は昭和63年のものであり、この時の今上天皇は昭和天皇のことです。)が皇太子の時、帝皇学を御進講申し上げた杉浦重剛は、ある日皇太子殿下に「人間の意思はかくあるべきでございましょう」と申し上げ、龍雄の「釈俊師を送る」と題した詩を、吟じてお聞かせした話は有名です。

 米沢が生んだ明治維新の志士雲井龍雄の墓は米沢市城南五丁目(七軒町通り)常安寺にあります。





Posted by アイル新日本 at 19:51│Comments(0)
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